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2014年11月21日 (金)

石田昌翁の紹介

歌人として、国学者として、また郷土史家としても高く評価されている石田昌翁は、柳川市大和町鷹尾の出身です。 

 県立柳河中学校(藩校伝習館)に学び、長崎に遊学して国学や長歌を究めようと決意し、上京して平田篤胤学派の門に入り、国学者丸山作楽に国学を、歌人海上胤平に万葉調長歌を学びました。間もなくその学業に打ち込む姿勢が認められ、「明治歌林」の主筆に抜擢されるなど、若くして将来を嘱望される存在になりましたが、父の病気により帰郷し、ふるさとに活動の場を移すことになりました。

 

  歌人としての活躍

  ふるさとでは、当時、九州で最高の国学者と言われ、全国にも知られていた船曳鐡門(久留米の

高良神社宮司)に師事して万葉集の研究に没頭し、その門下生の中村水城、佐々木信平、山崎時居

とともに筑後歌壇の四天王と呼ばれ、歌人としての名声が全国にひろまることになりました。

 

 その一方で、立花鑑寛公の協力を得て白縫会を設立し、続いて扶桑会、山門会、福岡の福陵会なども主宰するかたわら、岡山の齋垣内会や久留米の千歳会や西日本新聞歌壇の選者をも努めるなど、精力的に活動しました。歌集に「松園詠草」、「松廼落葉」、紀行文に「東の家包」などがあります。

 

   郷土史研究の業績 

 

 翁は郷土史にも造詣が深く、山門の遺跡、伝説、口碑などの掘り起こしや研究にも力を注ぎました。かつて師事した高良神社の宮司船曳鐡門の許で高良山の神籠石を調査した経験を生かし、瀬高町女山の列石を神籠石と断定して考古学界の注目するところとなりました。郷土の遺跡や地理、地名の由来、行政区の変遷などを自ら歩いて調査、収集し、見聞きしたままを記録してまとめた「若菜籠」は、貴重な郷土誌です。

 

鷹尾神社の県社昇格に貢献

 

翁は、当時の大和村の産土鷹尾神社八幡宮の氏子総代のひとりとして、同社に保管されていた800年以上も前の古文書をひもといて、その沿革を調べ、 

神宮皇后腰掛石などの由来も含めてその歴史を明らかにしました。その検証の成果を踏まえて、内務省に郷社鷹尾神社の昇格を申請し、県社として認められることになりました。

 

   地域の農業の振興に尽力

 

帰郷して間もなく、山門郡農会と山門郡進農会の幹事として勤めることになった翁は、長崎から馬鈴薯の種芋を取り寄せて、スノーフルクというその品種の栽培法や収穫してからの製粉法などを指導しました。翁の熱心な呼びかけで馬鈴薯を栽培する農家が増え、後にはそれが山門郡の特産物となり、農家の家計を支えることにつながりました。

 

また進農会の副会長時代には、広島にまで視察に赴き、稲二培作の成果と肥料についても学んで、その普及に努めるなど、地域の農業の振興に力を尽くしました。

 

没後12年に歌碑建立

 

石田昌翁が亡くなって12年後の昭和35(1965)年に、歌の門弟や鷹尾地区の有志及び石田家の寄金によってその歌碑が鷹尾神社の境内に建立されました。

 

また昌が蒐集し、整理した古文書は熊本中世史研究会より「筑後鷹尾文書」として公表され、重要文化財の指定を受け、考古学者の貴重な研究資料としてしばしば学術書で紹介されています。

 

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